ちゃおチャオブログ

日々の連続

最悪のインド旅行記(55)ニューデリーのインド門。

電力事情が悪く、夜は時々、突然電気が消えることがある。
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大都市デリーでは、停電は日常茶飯事だ。
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薄暗い中で食事を済ます。
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結局前夜は外歩きもままならず、早目にベッドに横になる。
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今朝はニューデリーにあるインド門を見に行く。
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デリーとニューデリー。隣り合った街同士だが、境目が良く分からない。どこまでがデリーで、どこから先がニューデリーかが。名前の示す通り、ニューデリーは戦後生まれた新しい町だ。インドが英国より独立し、この巨大な大陸国家の中心として、デリーの横にオーバーラップするようにニューデリーが建設された。今、これからインド門に向かう。インド独立の象徴。この門よりインドの道は国中に広がって行く。半年前の5月、阪急トラピックスツアーではこの門の周囲をぐるりと回り、バスの車窓から眺めただけで終わった。今日は時間があるので、ゆっくり見ることもできるだろう。

トラピックスツアーでは、世界遺産になっているデリー市内の旧ムガール帝国時代の古い遺跡を3か所回り、アグラ門の横を通り、アグラ街道をまっしぐらにアグラに向かったが、その門はイスラム征服王朝ムガール王国が作ったものだった。イギリスがムガールをこのインド亜大陸から追い払う前までは、このアグラ門がデリーへのGate,街の象徴だった。しかしムガールが去った後に残された門は、古びた煉瓦の今にも崩れ落ちそうな、殆ど人目を惹くものではなく、ツアーバスの乗客の殆どは車内で転寝をしていて、眺める人も少なかった。

現代のGate,それはインドに於ける最も有名な門で、ボンベイ(ムンバイ)にあるインド門だ。40数年前、自分が初めてインドを訪問した際に、ボンベイのこの門を訪ねたが、当時はまだ周辺は環境整備されてなく、バラックを取り壊した後のような未整地の荒地の中に大理石の巨大な門が突っ立っていた。すぐ前には生活用水で汚染されたような濁った海がさざ波を立てていた。嘗てのイギリスのインド支配の象徴。イギリスはこの門からスタートし、全インドを支配した。自分が訪問した時には、インドは独立してから既に20数年。門の周辺はやや荒廃した感じだったが、しかしこの門は尚輝きを失わず、がっしりと、ボンベイ、いや全インドのシンボル的存在に思えた。色んな国から、特に英国からの観光客が多いのだろうが、人々がやって来て、この門を眺め、又市内に帰って行った。その間、子供達が手に手に土産品を山と抱え、人々を追いかけた。自分も姉の娘、当時まだ3歳の姪に阿修羅の楽器、蛇腹の笛やタンブリン、今でいう処のマラカスなどを買ってやった。

ニューデリーにあるインド門がいつ出来たのかは知らない。40数年前、この街にやってきた時、この場所でこの様な門を見た記憶は無い。むしろデリーは素通りするようにしてアグラに向かったので、その当時から建設されていたとしても、ボンベイ門を見た後のことで、感心が無かったのかも知れない。今、改めて見ると、この門も矢張り巨大だ。矢張り、この街のシンボルに相応しい。門に登るべく、近づくと、正装したガードがやって来て、「登れない」という。理由を聞くと、門の横に建てられている掲示板を差し、それを読めという。如何にも格式ばった警備兵なのか傭兵なのか、近衛兵。長い文章で書かれていたが、何か、内部に一部危険な場所があるのか、壊れているかして中には入れないようだが、残念だが諦めるしかない。

ラオスビエンチャンに同じような門があり、それは「バトウサイ」というがっしりした石造りの門塔で、その屋上からの眺めは素晴らしいものだったが、このインド門はそれよりは倍程も高く、登ることが出来たらデリー、ニューデリーの町中が眺められ、さぞかし眺めも良いものだろう。門に登るのは諦め、周辺の現在進行中の整備中のニューデリーの街並みを見ながら、散歩することにした。



ニューデリーの行政地区は、広々と開発されているが、現在進行形だ。
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道路が広く長いので、地下鉄駅からも相当歩く。
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漸く近づいて来た。
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インド門。が、何故か今日は門の上には登れなかった。
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やむを得ない。この周辺の行政地区を歩くことにしよう。
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