これから劉備のお墓をお参りする。
正式な名称は「漢昭烈之陵」と呼ばれている。「漢昭烈帝」とは劉備玄徳のことだ。
陵墓の上は小山になっていて、雑木林になっている。
丸い小山で高さは30m位はあるか・・
ツアー客はこの小山を反時計回りに約200mを歩く。
これからいよいよこの武候祠での最後の場所、劉備玄徳の陵墓の観光になる。丸山のお墓の入り口には、この陵墓が「恵陵」という名前で正式には「昭烈忠武陵」と呼ばれるらしい。ガイドの黄さんの説明では、この墓は劉備が白帝城で亡くなって以来、約1700年間に亘って成都の人々により守られ続けた、との説明であったが、入り口の解説文を読むと、この陵墓を含め、武候祠全体は、清の時代、乾隆帝の頃に整備されたようだ。当時の清、康熙、雍正、に続く乾隆の3代は清の国力が最大に高まった時であり、その頃、ここ成都を前線基地として、チベットその他西域地方への勢力拡大を進めてきた。今から凡そ300年前、18世紀中葉のことだった。
小山の高さは凡そ30m位か。丸い墳墓で、円周は凡そ200m程か。以前兵馬俑で秦の始皇帝の陵墓の模型を見たが、それよりは遥かに小さい。勿論奈良の古市の仁徳陵と比べたら10分の一にも満たない大きさだ。小山の上には雑木が繁っていて、周囲に囲いとか霊廟が建っていなければ、その辺にある小山と違いはなかった。墓は成都の人々によって守られたと言われているが、そうした自然の小山であれば、盗掘にも合わずに清の時代まで持ったのだろう。ガイドに従って、雑木林の小山を反時計回りに歩くと、以前訪れた岡山総社の作山古墳、造山古墳の雑木林を思い出した。丁度こんな感じの疎林の小山だった。
「千秋凛然」。劉備の生涯はどうだったのか知らないが、劉備の旗の元に集まった諸葛孔明を始めとする英雄豪傑。蜀漢の国も2代で潰え、以降は幾つかの国権交代劇の中でもこの地は一地方に下されて、覇権を争うようなこともなっかた。豊かで平和な地方を享楽していたのだろう。再びこの地が脚光を浴びたのは、ずっと下った日中戦争時、蒋介石政権が重慶に臨時政府を置いた時であり、日中連合軍の攻防戦の場となった。この時「千秋凛然」の太平の夢は破られたが、今また再び成都は豊かな早春を迎えていた。
小山の高さは凡そ30m位か。丸い墳墓で、円周は凡そ200m程か。以前兵馬俑で秦の始皇帝の陵墓の模型を見たが、それよりは遥かに小さい。勿論奈良の古市の仁徳陵と比べたら10分の一にも満たない大きさだ。小山の上には雑木が繁っていて、周囲に囲いとか霊廟が建っていなければ、その辺にある小山と違いはなかった。墓は成都の人々によって守られたと言われているが、そうした自然の小山であれば、盗掘にも合わずに清の時代まで持ったのだろう。ガイドに従って、雑木林の小山を反時計回りに歩くと、以前訪れた岡山総社の作山古墳、造山古墳の雑木林を思い出した。丁度こんな感じの疎林の小山だった。
「千秋凛然」。劉備の生涯はどうだったのか知らないが、劉備の旗の元に集まった諸葛孔明を始めとする英雄豪傑。蜀漢の国も2代で潰え、以降は幾つかの国権交代劇の中でもこの地は一地方に下されて、覇権を争うようなこともなっかた。豊かで平和な地方を享楽していたのだろう。再びこの地が脚光を浴びたのは、ずっと下った日中戦争時、蒋介石政権が重慶に臨時政府を置いた時であり、日中連合軍の攻防戦の場となった。この時「千秋凛然」の太平の夢は破られたが、今また再び成都は豊かな早春を迎えていた。
ここが陵墓と言われなければ、その辺にある小山と変わらない。
墓の中に何が収められているか分からないが、今まで盗掘には遭わなかったとのことである。
陵墓の前には馬や狛犬等の置物が置かれていた。
ライオンなのか狛犬なのか、よくわからない置物。
これも又「千秋凛然」か・・