ちゃおチャオブログ

日々の連続

成都の3日間(39)竹林公園(望江楼)を出て、担々麺の店へ。

錦江に臨む望江楼の跡地。以前はここに瀟洒な楼が建っていた。
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錦江の浅瀬に遊ぶ白鷺。
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「蜀滅ぶや 錦江の鷺 幾星霜」
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今日は小雨で屋台のキオスクには人もいないが、周辺は中国風に造園されている。
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置き石と滝。中国の風情だ。
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成都の別名は錦里で、そこを流れる錦江。成都は昔から機織物、絹糸から錦布への織り物が盛んな土地だったようだ。今、6月の東京では桑の実が丁度熟れ時で、熟した黒い実は甘酸っぱい味覚で口中に広がるが、この桑の木にしても、その葉を餌とする蚕も温帯に生息する昆虫と樹木。元々は長江流域のこの辺りが原産で、遠く日本へ伝来したものだろう。

このブログへのKMさんのご指摘によれば、元の時代、マルコポーロはここ成都を通って北京とローマを往復していた、とのことだが、残念ながらマルコポーロであっても、この絹織物の製法はヨーロッパには伝えられなかった。それは欧州とここアジアの温帯地方とでは気候風土も異なり、桑の木も蚕も育たなかったに違いない。明治になってから、日本の絹織物の製法がタイへ伝えられ、タイシルクの評価が世界的に高まり、英国人のジム・トンプソンが世界のシルク王とまで呼ばれるようになった歴史を考えると、今この望江楼から錦江を眺め、感慨深いものがあった。

今は白鷺が数羽川の浅瀬で餌を啄んでいる。このシラサギにしても遥かな海を渡って朝鮮半島や日本との間を往復しているのか・・。小金井の野川でも時々見かけるが、あれはゴイサギだったのか・・。川は浅い。13億人の民を養うため、更にその民度を上げる為、川の上流では大規模な取水が行われているのだろう。以前済南で見た黄河が、川幅だけは広々していたが、僅かな水量に少し幻滅したが、それはビエンチャンで見たメコン川にしても同様だった。中国の急速な経済発展は、1000年2000年間保たれてきた自然のバランスをこの10年、20年の間に破壊に近い変化を齎し、今この錦江を航行する小舟も見当たらない。あるのは、先刻公園の中で見た飾りの苫舟位だった。

公園の出口付近にはこの公園が整備された経緯や年月日等のプレートが掲示されていた。この公園が出来たのは1994年のこと。これも又KMさんのブログコメントで知ったことだが、改革派の一方の旗頭、趙紫陽は中央の総書記に就任する以前、ここ四川省の省長を務めていて、大々的な成功を収めたとのことである。1994年、彼がまだ尚四川省の省長であったか否かは知らないが、四川省は中国20数省ある中で、最も成功した省の一つに数えられ、そうした経済的な波及効果がこうした川べりの公園、武候祠、錦里、道路や交通、その他、諸々の環境整備に及んでいったのだろう。

竹林の七賢は蜀が滅んだ後の魏、晋の時代になってから、実際に竹藪に住むというよりか、社会的な地位名誉から離れ、韜晦の人生を歩んだ賢人を差しているが、この竹林公園を周遊し、且つ、錦江に遊ぶ白鷺を見て、中国乃至中国人の奥深さを感じるものであった。旅の最後に良い公園を見ることができたが、これから最後の食事を為の市内のレストランに向かう。昼食は担々麺だ。



太湖石ではないが、大きな石など配置され、石の好きな国民性を表している。
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これ等の石は太湖石程ではないが、中国では有名らしい。名前を聞いたが、忘れてしまった。
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公園の出口付近に公園整備の石碑が建っていた。1994年建設とある。
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公園の出入り口には、責任者の名前が写真入りで掲示されていた。女性の責任者だ。男女同権の中国らしい。
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さて、竹林公園を後にして、最後の昼食、担々麺の店に向かう。
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