ちゃおチャオブログ

日々の連続

薩摩・大隅500キロの旅(2)機上から見る白銀の富士。

富士山はこの相模灘の前方に見える筈だが・・。
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丹沢の山の向こうにある見える筈だ。
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ああ、漸く見えてきた。
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眼下の海はどこだろう・・。まだ湘南か、それともわが故里駿河の海なのか・・
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富士は瞬く間に近づいてくる。
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右手前方に丹沢山系・大山の登山道が見え、眼下に目を落とすと、どこの海岸か三浦半島のどこか綺麗な砂浜も見える。再び前方に富士山が傾いて見え、山はどんどん近づいてくる。真白の富士。白銀の富士だ。夏は黒鉄、冬は白銀。飛行機に乗る度、何回となく富士を見ているが、いつ見ても富士は神々しい。富士には神が宿る、と言われているが、間違いない。堂々と、どっしりとした富士だ。不二の神だ。世の中に二つとない神の山。

過去自分は2回この山に登っている。百名山登山記録を確認すると、2001年8月、最初に百名山を登った開聞岳と同じ年だ。この最初の年だけで、19座の百名山を踏破し、富士山は12座目に登っている。この時は単独行で、車で富士宮5合目登山口まで来て、そこから8合目の山小屋で眠れない夜を過ごし、未明に起きて山頂からのご来光を眺めた。感動の一瞬。日本一高い山から眺めるご来光だ。これほど神々しく、神聖な気分を気分を味わうことは過去余りないことだった。

それから富士山山頂の火口を反時計回りにぐるりと一周、所謂お鉢周りをしたが、丁度その日は、富士山測候所の最終日で、白い丸いドームが解体され、ヘリコプターで運び去られる日だった。ここには嘗て新田次郎が作家になる以前、気象庁の職員、富士山観測所長としてこのドームに寝泊まりし、気象の観測をしていたのだ。

その新田次郎がモラエスを題材とした「サウダーデ・孤愁」を毎日新聞に連載中、68歳の若さで急死してから、既に20年が経っていたが、彼の最初の小説「剛力伝」から始まる数々の山の名作は、彼自身が富士山測候所での数年間の経験が賜物していたに違いない。3か月前、羽田から同じこのコースを飛んで香港マカオへ向かったが、それは取りも直さず新田氏の息子さん、藤原正彦(現お茶の水名誉教授)が父親の死後30年経ってから中断していたサウダーデの続編を完成させ、それを読んだ自分が去年はモラエスの終焉の地徳島へ行き、3か月前はマカオへ行き、又来年の1月には母国ポルトガルを訪問する契機にもなった。まさにこの富士を見ていると、新田次郎~サウダーデ~モラエスへと続く探訪の旅のきっかけとなるものだった。

最初の富士山登頂から2年後の2003年7月には、会社の同僚3人と今度は富士吉田口から登り始め、山頂の浅間神社前で静岡から登ってきた別の同僚5人と待ち合わせし、お互い手を取り合って登頂を祝福し、コッヘルで煮炊きしたラーメンその他の朝食を食べ、「神の池」の水を飲んでまた二手に分かれ下山したが、今この白銀の富士を見ていると、そうした様々な思い出が走馬灯のように走り去っていく。ほんの僅かな時間、時間にしたら10分もないのだろう、右手に大きな火口を覗かせていた白銀も富士も、視界の後方に去って行った。



ああ、富士山が真横に見える。右の一番高い場所が三島岳。左の少し尖った部分に富士山測候所の丸いドームがあった場所だ。
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ああ懐かしく、何と神々しい山だ。
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数分間の空中遊覧。富士は遠ざかっていく。
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富士山が視界から消えた後は、南アルプスの険しい峰々だ。
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聖、光、赤石、塩見、・・どの峰も真白の雪をかぶっている。
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