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日々の連続

The Third Eye カトマンズへの道(44)プラーナーキラー城内の観光。

嘗ては色々と建物が立ち並んでいたであろうが、今は緑地の広場になっている。
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ただ、当時の建物も幾つか保存されている。
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今は入れないが、大きな地下室も造営されていた。
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右手前方に物見の塔がある。そこまで行ってみよう。
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プラーナーキラー、この言葉が実際ヒンドゥー語なのかムガール語なのかは自分は知らない。が、意味するところは「古い城」。ムガール帝国第2代目の皇帝フマユーンが造営した城塞だから、確かに古いには違いない。ちなみにムガールとはモンゴルが転訛した言葉と言われ、モンゴル帝国ジンギスカン始めフビライ等々が西域から東欧方面にまで勢力を拡大した間、その一部の勢力が南下してトルコ、ペルシャパキスタン方面まで伸長し、最後に行き着いた場所がこのインド亜大陸で、先刻資料館にムガール帝国の版図が掲げられていたが、インド南部のごく一部の地域を除いて、この亜大陸のほぼ全域を手中に収めた。

モンゴル(蒙古)最強軍団は、中近東、西アジア方面を侵略する内に、現地のペルシャイスラム教を取り入れ、彼等の宗教もイスラム教となり、現在インドに於けるムガール史跡はすべてイスラム様式になっている。武力では勝っていても、文化面では劣っていた蒙古モンゴリアンは、北京に入城した後、元となって、大いに中国化したが、中近東、インドに於いても同様のことが起こっていたのだ。だからムガールと言われても、これが元の姿のモンゴルとはすぐには理解できないのだ。

だだっ広い城塞内は、嘗ては沢山の建物、住居なども建っていたであろうが、今は殆ど取り払われて、象徴的な建物数棟が残っているだけだ。だがそれ等はどうみてもイスラム的、中近東風でインド的とは思えない。現地住民、ヒンドゥー、インド人とは隔絶された特権階級、支配者の世界がここにはあったのだろう。だがそのムガールも後年英国により放逐され、一時は廃墟同然だったかもしれないが、今はムガールの史跡として整備されている。

城内広場の右手前方に塔のような丸い建物が見える。案内によれば見晴台だったとのこと。先ずはそこまで言って、塔に登ってみよう。500年前の王様がその塔の上からどんな光景を眺めたのか・・。興味あるところだ。広場にはシャモのよおうな元気で鮮やかな鶏が放し飼いにされていて、自分が近づいていくと、バタバタ羽根をバタつかせて逃げ惑う。面白いので、ちょっと追っかける仕草をして塔までやってきた。



嘗てはここからヤムナー川も見えたと思うが、今は視界が塞がれている。
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すぐ下を線路が走っていて、前方にニューデリーの街並みが見える。
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ニューデリーの駅の辺りだ。
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案外緑も保存されている。この緑の中に遺跡があるようだ。
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