ホテルの直ぐ近くにはアミューズメントエリアもあるが、夜で人は殆どいない。
電気だけが煌々と無駄に点いている。
太湖に近い場所だから、昼間は太湖観光の帰りの客で賑わっているかも知れないが・・。
同行のナベさんもいる。
無錫とはどんな町なのだろうか・・。日本人には隣町の蘇州の方が馴染み深く、殆どの日本人ならこの町の名前は知っている。その蘇州に比べたら、無錫の知名度は半分以下だろう。だが、中国の歴史書には、この街も蘇州も共に紀元前から名前が出ていて、中国人にとっては、同じように知られている。更に、この近くには徐州と言う街もあり、これは又更に知名度が低いが、戦前の日中戦争時代、上海に上陸した日本軍は、上海から今日のツアーで通ったコースを行軍し、南京まで北上して行ったが、戦前の日本人には徐州作戦で名前が知られていて、日中両軍の一大決戦の場所、徐州作戦で、この戦いの後国民党軍は、重慶へ退却したのだった。
戦前にはこの時の行軍を東海林太郎が哀愁を籠めて歌う、「徐州徐州と人馬は進む~、徐州居よいか住みよいか~」と、この「麦と兵隊は」勇ましい軍歌と言うよりか、むしろ厭戦気分を醸し出すような歌だったが、同じように隣町には「蘇州夜曲」があり、戦前の名優李香蘭、戦後は山口淑子として参議院議員にまでなったが、その美貌女優が映画「支那の夜」でほれぼれするような夜曲を歌っているが、同じように戦禍にまみれ、日本軍に支配されたこの町無錫には、歌がなかった。漸く「無錫旅情」が発表されたが、それは戦後大分経ってからのことで、日中国交が回復し、中国経済が発展し、この街ににょきにょき高層ビルが現れだしてからのことだった。
歌の方も、「徐州、徐州」や「支那の夜」は何回も聞いていて、最初の出だし位は口ずさむこともできるが、「無錫旅情」については、殆ど聞くこともなく、歌詞の中に「太湖」が出てくるのを知っている程度だ。ホテル近くにあるアミューズメントエリアも、この先の方に太湖があり、昼間なら太湖観光へやってきた家族連れなどが、遊びの延長としてこのアミューズメントでお金を落として行くのだろうが、夜の時間、お客さんも殆どいなくて、煌々とした明かりだけが、無人の広場を照らしていた。経済が伸長し、所得が増えたと言っても、夜遊びはしない、夜中まで出歩かない、と言った、従来からの中国人の生活習慣を変えるまでには至っていないようだ。
戦前にはこの時の行軍を東海林太郎が哀愁を籠めて歌う、「徐州徐州と人馬は進む~、徐州居よいか住みよいか~」と、この「麦と兵隊は」勇ましい軍歌と言うよりか、むしろ厭戦気分を醸し出すような歌だったが、同じように隣町には「蘇州夜曲」があり、戦前の名優李香蘭、戦後は山口淑子として参議院議員にまでなったが、その美貌女優が映画「支那の夜」でほれぼれするような夜曲を歌っているが、同じように戦禍にまみれ、日本軍に支配されたこの町無錫には、歌がなかった。漸く「無錫旅情」が発表されたが、それは戦後大分経ってからのことで、日中国交が回復し、中国経済が発展し、この街ににょきにょき高層ビルが現れだしてからのことだった。
歌の方も、「徐州、徐州」や「支那の夜」は何回も聞いていて、最初の出だし位は口ずさむこともできるが、「無錫旅情」については、殆ど聞くこともなく、歌詞の中に「太湖」が出てくるのを知っている程度だ。ホテル近くにあるアミューズメントエリアも、この先の方に太湖があり、昼間なら太湖観光へやってきた家族連れなどが、遊びの延長としてこのアミューズメントでお金を落として行くのだろうが、夜の時間、お客さんも殆どいなくて、煌々とした明かりだけが、無人の広場を照らしていた。経済が伸長し、所得が増えたと言っても、夜遊びはしない、夜中まで出歩かない、と言った、従来からの中国人の生活習慣を変えるまでには至っていないようだ。
ショッピングエリアだ。
ダンスホールのようなにぎやかな音楽が聞こえてくるが、客は少ない。
翌朝、窓の外は朝霧か・・、スモッグか・・。
どうも、スモッグのようだ。