ちゃおチャオブログ

日々の連続

愛媛(伊予一国)ドライブ巡礼(24)卯之町の開明小学校。

松屋旅館邸内には、古木の松が茂っている。
「この宿の 庭木の茂る なつかしき」

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松屋旅館を後に、もう一つのスポット開明小学校を見に行く。

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学校はこの先の右手の坂を上った所にある。正面の山の右端の奥に明石寺がある。

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開明―開智ー開化。どれも明治の気風を表している言葉だ。江戸幕府が倒れ、明治の代になった。世の中は文明開化、西洋の文物を取り入れ、国を開き、殖産興業に突き進む。新たな明治の代に押し進めて行ったのは、薩長土肥の4藩であったが、そんな中、ここ宇和島藩も負けてはいなかった。藩主伊達宗城は幕末の4賢侯の一人であり、隣の土佐の山内容堂、薩摩の斉彬、福井の春嶽と並び称される名君であった。今朝宇和島城に登ったが、城下には高野長英大村益次郎等を匿った屋敷跡もあった。四国の僻遠の地にあって、新進摂取の気概に燃えていた。いや、隣の土佐が沖を航海する米国捕鯨船、ジョン万次郎等々の夜明けの風に感化されていたのかも知れない。幕末にはアーネストサトウも宇和島を訪問している。

 

ここ卯之町のある宇和も宇和島藩の領内で、隣の三間同様、陣屋が置かれていた。藩主宗城の開明の気風はこの町にも及んでいたのだろう。明治になってから町民の出資により、この場所に小学校が設立された。当時の開明小学校である。交通の要衝で、この町は栄えていて、町民もお金を持っていたのだ。この小学校は、長野の松本にある開智小学校と姉妹校の関係にあるという。明治の人々は教育熱心で、親は襤褸を着ていても、子供の教育にお金を掛けた。教育県の信州とここ宇和に共通するものだった。

 町村合併で、もう宇和という町はない。味気の無い西予市という名前になっている。松山の隣に伊予という市があり、その西側に位置する合併市が西予市、松山の東にある合併市が東予市。昨日訪問した御荘町という歴史と由緒のある町名は無くなって、愛媛の最南だから愛南町。誰がどんな経緯で名付け親になったのか知らないが、役人発想で、夢も希望もないネーミングだ。ITにお願いしたら、もっと優雅な名前が付けられただろう。

 いずれにしても、江戸時代から続いていた宇和の町名は無くなり、卯之町のみが歴史保存地区として後世に残された。

 宇和。不思議な名前と町だ。この町は海に面してはいなかった。ただ海の名前は宇和海四国カルスト台地が海に向かって段々下り降りてきて、殆ど山並みが途絶える辺りの盆地状に開けた町だ。その先に開けた海だから、宇和海と呼ばれるようになったのか・・。半島は佐田岬。サダにウワにミマにイヨ。何か古い日本語を感ずる。いや、もっとそれ以前の大陸、半島由来の言葉なのか・・。興味は尽きない。

ああ、そう言えば、宇和島には中国伝来の琵琶の名器もあった。ビワ。平家が都落ちをするに際し、平経正が後白河から賜ったその琵琶を仁和寺法親王にお返しした。その琵琶の名器「青山」は数奇な運命を辿り、いつの頃か宇和島伊達家に渡り、今は宇和島にある伊達文化保存会にあるという。何かまた宇和島へ行きたくなった。

 

町の一番高い場所に開明小学校が建っていた。町民の誇りだ。

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旧小学校分校。今は資料館になっている。

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最初に見た味噌販売店の倉庫。江戸時代からこんな感じだったのだろう。

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卯之町の30分の散歩、思い出深いものになった。

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