九度山駅を過ぎると本格的な山岳電車になり、谷の下の住宅が小さく見えて来る。
駅の下の谷間には人家が見える。この土地に昔から住み着いている人々だろう。
以前この高野山電車とその先のケーブルカーには乗ったことはある。もう随分前の事で、今からもう30年以上も前のことだろう。仕事で大阪に来て、その頃読んでいた司馬遼太郎の「空海の風景」、それと同時期に発売された陳舜臣の「曼荼羅の人」、この二つの小説の中で描かれた弘法大師空海の強烈なキャラクターに惹かれ、何はさておいても空海が終の場所とした高野山を是非尋ねてみたい、との思いで、当時は南海電車の直通で高野山まで来れることも知らず、JRで和歌山に出て、そこで奈良五条線に乗り換えて、橋本まで出て、そこから今乗っている山岳電車に乗ったのだ。
30年か40年か、或いはもっと前か、その当時の記憶は殆ど残ってなく、季節だけは覚えていて、確か4月ごろ、曇り空の肌寒い日で、これから山地の高野山へ行くということで、寒さ対策に和歌山駅2階の衣料品店で、裏表自由にひっくり返して使えるリバーシブルのセミジャンパーを買って、橋本からこの山岳電車、ケーブルカーで登って行ったことだけは今でも覚えている。その時のセミジャンパーは春秋の季節の変わり目には今でも使っているので、その時の記憶は薄れないのかも知れない。
山岳電車は九度山駅で暫く停車し、何人かの乗客も降りた。何かの用事で来たのか、夏休みで九度山に遊びに来たのかは知らないが、今まで通過した駅では一番の賑わいだった。この駅は当時も賑わっていたかも知れないが、殆ど印象に残っていない。九度山が天下分け目の関ヶ原合戦時、信州上田の真田軍が西方の豊臣方に味方し、西方敗戦の仕置きとして真田父子がこの九度山に配流され、永らく不遇の身であったことは後年知った。
本の中では九度山は高野山の麓の人里離れた山間僻地にあり、交通の便も至って悪い場所との認識があったが、今こうして電車の中から見る限り、駅周辺には人家も多く、紀ノ川の最上部にあって見晴らしも良く、随分と開けた土地に思えた。昔はどんな地名だったのかは知らないが、今は九度山町と言う立派な町名になっている。戦国時代には今ほど人口も少なく、周囲も森林に覆われていたかも知らないが、紀ノ川からはそれ程離れている訳ではなく、今までの山間僻地とのイメージとは全く違った、明るい土地だった。
この九度山駅を出ると、電車は本格的な山林電車となり、ケーブル駅まで数駅、全くの無人駅で、それでも一人二人の昇降客はいた。駅の下の谷の底には人家がまばらに見えて、もう何世代にも渡ってこの土地に住み着いている人々だろう。そうした無人駅を幾つか停車し、始発の橋本駅から50分ほどで終点のケーブル下駅に到着した。ケーブルカーとの乗り換え時間は5分ほど。ゆっくり写真を撮る間も無く、ケーブルに乗り込んだ。乗客は3人程。急勾配のケーブルカーは力強く急坂を登り、凡そ10分ほどで高野山山頂駅に到着した。
高野山の山並みも近づいてきた。
間も無く終点の高野山下だ。朱色の橋も見えてきた。