長野の上田からやってきたのか、それとも地元の香具師なのか、六文銭の鎧兜を着込んで、参詣客を集めている。
定番、沖縄屋台も人気者だ。
一番最初に大阪に来たのは千里丘陵の万博の時だったか、大学入学の夏休みに名張の級友を訪ねてその足でやって来たのが最初だったのか、どちらが先かはっきりした記憶はない。いずれにしても新幹線開業後のことで、東京から長い時間かけて在来線でやってきたことはなかった。その以前の中学の修学旅行では沼津からの急行で京都奈良にやってきて、大阪には来ていなかった。
大阪に2回目にやってきたのは社会人になってからで、多分、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んだ後、この四天王寺が聖徳太子の創建によるもので、この寺にある西門は真っすぐ大阪湾に向かっていて、年に2回、春分と秋分の日に、太陽がこの西門の真上を通って真っすぐ大阪湾に沈んでいく。その情景は年に2回しか見られない、といった記述があった。その時、次に大阪へ行く時は、是非かこの四天王寺に来てみたいと思った。
最初の大阪観光は級友の米沢君に案内してもらって、唯一記憶に残っているのは通天閣に昇ったこと位だが、2回目の時は自分の足であちこち歩き、よく覚えている。大阪城に昇ったり、道頓堀を歩いたり、住吉大社にお参りした中に、ここ四天王寺もあった。その時は今日のように祭日ではなく、参詣者も少なくひっそりした感じの寺で、奈良の法隆寺と比べると観光客も全く来ておらず、ああ、同じ聖徳太子所縁のお寺でも、人気度はこれ程違うのかと拍子抜けした。
広い墓地の奥の方にあった元三大師堂を探し当て、最後に大師にお参りし、西門に向かった。この時の季節は定かに憶えていないが、それは春分の頃でも秋分の頃でもなく、又時間も日没に近い時間帯でもなかった。従って太陽はまだ中空にあったが、秋分の日、この石造りの西門の真上を通って、西の海、大阪湾に沈んでいく様は想像できた。当時はまだ今日ほど周辺のビルは少なく、ここからは流石に海は見えなかったが、古来より言われている「茅渟の海」を想像するに十分だった。自分勝手な解釈で、「茅渟の海」は「血塗られた海」。それは神武東征以来から続くこの海の激しい攻防の様を物語るものだった。
前2回この寺にやって来た時とは今日は大違いで、沢山の屋台と出し物、参詣を兼ねた物見客で賑わっている。中に見慣れた六文銭の旗が見える。ああ、この幟はコロナ前に友人の山さんがまだ元気な頃、稲さんと3人で長野の上山田温泉に行った時、途中の上田城に立ち寄った時にあちこちに翻っていた真田家の旗指し物だ。あの時に知ったのだが、上田市と大阪市は姉妹都市になっているのだ。屋台の店主なのか、市の関係者なのか、甲冑姿で上田の宣伝をしている。かなり人気があって、団子なども良く売れている。その隣には懐かしの沖縄屋台。こちらも又人気を集めている。大阪人で商売上手なのか、香具師の口上が上手いのか、どこも人気だ。そんな屋台を通り抜けて、西門、石門に向かった。
境内には五重塔もあるが、今日は行くのは止めておこう。
ああ、以前は気が付かなかったが、親鸞聖人像もある。親鸞は聖徳太子の生まれ変わりとも言われている・・。
ああ、西門が見えた。周囲に高いビルが立ち並び、以前のイメージとは大分違う。この石門の先に大阪湾がある。