朝晴れて、日中も概ね晴れていたが、午後から急変。集中豪雨の帯が関東地方にやって来た。雷と豪雨。テレビを見ていると、小金井にも河川氾濫の注意報が出ていた。小金井の河川と言ったら、野川しか思い浮かばないが、全長僅か20キロにも満たない中小の小川が、短時間集中豪雨で溢れることもあるのだ。今日のコメントでは、所沢に住む悠久さんが凄い豪雨に驚いていたが、一極集中、短期決戦の豪雨では、通常河川はたまらない。
さて、その悠久さん、今日のコメントで、日本の政治、殊、自民の内部紛争のような総裁下ろしを慨嘆していたが、自民こそ正に村社会の日本の伝統を色濃く残している政党で、村社会のもたれあい、良い意味の助け合い、足の引っ張り合い、村八分、ドングリの背比べ、金太郎飴、良くも悪くも、異質なものを排除し、同質化を求めて来た政党で、日本の村社会の長い歴史が凝縮されてきた結果の一つである。
村社会の中からは、信長のような英雄や秀吉のような知恵者が出てきて、旧態依然を打破するような人物は、圧倒的な力が無い限り、出現する要素は少なく、結果、その後を継いだ家康のように、出る釘は打たれない、旧態平々凡々の社会に又々戻してしまった。関ヶ原までの過去2000年の農耕社会、関ヶ原から今日までの400年間、戦国の世を挟んで、一旦は変わるかと思われた日本の社会風土は、戦国時代の100年間を異質な時代として隅に押しやり、再び又それ以前の農耕社会の住み慣れた文化に舞い戻ってしまったのだ。
戦国時代の100年は上位のサムライ集団の争いで、一般農民の意識、生活、心情を変えるものでは無かった。150年前の明治の革命も80年前の太平洋戦争とその後の進駐軍も日本人全体の意識を変えるような強烈なインパクトはなかった。結果日本は、そのほとぼりが冷めれば又元の農耕民族の思考風土に戻ってしまった。
農耕の歴史、文化は日本の律令制度以降の歴史よりも長い。律令国家が生まれる以前から日本各地に米の農耕が行われ、縄文、弥生の時代から強力な長がいようがいまいが、集団で農作を行い、田を耕して来た。静岡の登呂遺跡などその一つの例で、そこに酋長、族長がいようがいまいが、田んぼはあった。集団指導制のリーダーの下でだ。稲作の基本は共同して耕すこと。てんでんばらばらにやってはならないし、来年の籾米もしっかり確保しておかなければならない。素戔嗚尊はどういう神か自分には詳しくは分からないが、田を荒らす行為は厳しく罰せられ、邑から追放された。輪、和を乱すもの、出る杭は打たれ、排除されるのだ。
ここ数日、秋篠宮の後嗣が青年皇族になったニュースが連日報じられているが、天皇後嗣問題について、未だに決着がついていない、結論の出せない日本の政治、それは大戦時、多くの戦争指導者は日本必敗と分かってはいても口には出せず、誰も戦争終結に動こうとしなかった当時の状況と今の天皇後嗣問題が瓜二つに見え、結論をいつまでも先送りしている状況。今の自民党のドタバタを言ってるわけではない、真に政治指導者は今の日本にはいないのだ、と言う事を今日の悠久さんへの返信としたいと思って、ブログを始めたが、いろいろと余計なことを書いてしまった。