ちゃおチャオブログ

日々の連続

掛川城と事任八幡宮(1)掛川駅周辺にて。

今日は半年ぶりに掛川にやってきた。JR掛川、新幹線口。
 
 
 
駅前広場には何をイメージしているのか、こんなモニュメントがあった。
 
 
 
新幹線駅と同時に開発された新しい街並みだ。
 
 
 
駅前には大型ホテルやレンタカー会社しかない。飲み屋もない。
 
 
 
ああ、旧市街は駅の反対側のようだ。
 
 
 
駅に戻って、シラスご飯を食べる。
 
 
 
 
 
まだ残暑の残る9月初め、所用で再び掛川へ行くことになった。再びと言うのは、つい半年ほど前、ここにある簡易裁判所へ来たのだが、その時は知人の車に同乗し、新東名を通ってこの町に来て、裁判が終わったらそのまま伊東の一碧湖畔の別の知人の別荘、と言っても、彼は東京の自宅を売却し、この土地に1000坪を越える広大な元別荘地を購入し、この場所を終の棲み家としていたのだから、別荘とも言えないが、その一碧湖の邸宅へ夕方までに行く必要もあり、その3月中旬の時には掛川の街を素通りし、たまたま裁判所がお城の裏側辺りにあり、車中からお城の外郭を眺めた程度だった。

今日の用事は1時間程度、長く掛かっても最大2時間は掛からないだろう。30分に1本程度掛川に停車する新幹線で来ているので、午後の時間は十分にある。仕事を終えたら、今日は前回立ち寄れなかった掛川城と、つい2ー3日前に竜虎が自殺した市内の神社へも行って見よう。

掛川駅に降りたのは、もう何十年前になるだろう。高校生の頃だから既に40年以上は経っている。その時はまだ新幹線も開通しておらず、当時、この駅を起点とする浜名湖鉄道に乗り、森町、更にその先の秋葉神社まで行ったことがあった。次郎長一家、森の石松のお墓をお参りし、昼なお鬱蒼とした山林に囲まれた秋葉神社にお参りしたことが思い出された。

新幹線掛川駅は確か後発組だ。と言うのは、東京オリンピックの年、東京ー大阪間に新幹線が開通した時には、この街には駅は作られず、大分経ってから、市民の要望で建設費用をJR東海社と折半する形で開業されたものだが、その後、後に続く富士駅三河安城駅等々の先鞭を付けたものである。つい最近になって彦根がこの方式での新駅建設の是非を市民に問うたのだが、税金負担増の反対に遭って着工されなかったのは、記憶に新しい。

新幹線駅と言っても後発組の初期の頃だから、もうこの駅も30年以上は経っているだろう。その間、何回となく東京ー大阪間を新幹線で往復し、一度は途中下車しお城を見て来ようとの誘惑に駆られもしたが、こだま号への乗り換えという煩わしさもあり、今日まで実現しなかった。

こだま号は東京駅から2時間近くかかって、昼前に掛川駅に到着したが、ホームに降りた人も僅かに10数人か・・。同じ降車ドアに色浅黒い中年女性が大きなバッグを両手に持って立ち並んだが、つい数か月前フィリピンを旅行したことを思い出し、「フィリピン人ですか?」と聞いた処、「いいや、ブラジル人」とのかなりしっかりした日本語で返事を寄越した。成程、そう言えばこの町は天竜川を挟んで、ブラジル系市民が多く住んでいる浜松の隣町に当たるのだ。

昼にはまだ少し早いが、駅を出て食堂を探す。駅前は広々としていて、レンタカー会社、ホテル等が立ち並ぶだけで、食堂らしい店は無い。新幹線駅が開業してから開発された駅前のようで、古い町並みは全くない。もう一度駅に戻り、1軒だけ開いていた地元の食堂に入り、地元産の「シラスご飯」を食べる。駿河湾のシラスだ。ご飯の上にこんなに沢山のシラスを掛けて、珍しい。

昼食後、駅の反対口に出る。こちらが旧市街になっていて、浜名湖線の改札口もある。今はもう殆ど覚えていないが、確かこんなような小さな2両編成の電車に乗った記憶も思い出された。駅前の大通りを真っ直ぐ行った先に掛川城がある。40数年前は確か天守閣なく、城壁しかなかった筈だ。用事が済んだら、是非立ち寄ってみよう。
 
 
 
 
西口は旧市街だが、綺麗に区画整備されている。
 
 
 
西口も再開発されているようだ。右手の方に浜名湖線の乗り換え口がある。
 
 
 
街並みも広々と整備されている。この先に掛川城がある。
 
 
 
西口駅前の少し先に、旧東海道の商店街がある。
 
 
 
旧東海道城下町の「中町商店街」。しかし、今はもう大分錆びれているようだ。
 
 
 
この旧街道を越した先に掛川城の杜が見える。