ちゃおチャオブログ

日々の連続

皇居の桜ー通り抜け(5)江戸城本丸跡。

乾門の外では桜ではなくこれから木蓮が咲き始めるところだった。
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良い色合いの緋木蓮だ。
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北詰橋から旧本丸、東御苑に入る。乾通から流れてきたらしい人々が多い。
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再び又桜が目の前に飛び込んできた。
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ああ、皇居内の音楽堂だ。昭和皇后の発案により作られたものだ。変わったデザインの建物だ。
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坂下門から乾門までの約800mの道路は一方通行の通り抜けになっているので、一旦乾門から外に出ると、ここからもう一度皇居内に入ることはできない。今日はこれから夕方品川に行く予定があるが、時間はまだ十分ある。折角ここまで来たのだから、江戸城天守閣跡、天守台を見に行くことにした。

乾門を出た直ぐの場所には首都高速新宿線の代官町ランプがある。東京地下を走る高速道がこの場所で一瞬外に出て、皇居のお濠などが見える場所だ。この門を出て、右手の方向に歩いていくと、前方左手に見慣れたビルが見えてくる。毎日新聞が入っているパレスサイドビルだ。日本の最初の超高層ビル霞が関ビルが建設されるよりも前にこのお堀端のビルが出来、モダンな外観は日本の高層建築の幕開けとなったものだった。その目の前にある濠が平川濠で、平川橋の手前の橋を渡り、旧江戸城本丸跡に向かった。

橋の袂には皇宮警察北詰橋派出所があり、ここから先は再び皇居。今は東御苑となって10数年前から一般に開放されている。今では誰でも自由に旧江戸城本丸に入ることができるのだ。乾通り抜けを見終わった人々も多いのか、かなりの人がこの本丸跡にもやってきている。

目の前に巨大な石垣が行く手を塞いでいる。ああ、天守閣跡の石組み、天守台だ。日本一の天守閣。石組みの高さは、二番目に大きかった大阪城の倍ほどの高さがある。400年前、この場所に千代田城が築城され、ここに巨大な5層6階の天守閣が空に聳えていたのだが、明暦の大火により焼け落ち、以後再築されることはなかった。明暦の大火ー振袖火災とも言われているが、これも又上野の桜にまつわるものだった。旧暦1月は丁度今頃の桜の季節だった。

天守台に登って広々した前庭を見る。旧本丸跡。江戸時代、ここには幾つもの建物があったが、今は芝生の公園になっている。公園の前方、右端に大きな桜が今満開の花を咲かせている。そこは江戸城刃傷事件のあった松の廊下があった場所だ。赤穂浪士47士は前年の暮れ、主君浅野内匠頭の仇討ちを果たし、丁度桜の咲く頃の2月、切腹打ち首となった。裁きに当たった荻生徂徠は桜の散り際の良さにかけて、「武士たる者、美しく咲いた以上は、見事に散らせてやるのが人の情」と講談話にもあった。松の廊下に咲く桜は、実際に見事な枝ぶりだった。



江戸城天守閣のあった天守台の裏に出た。巨大な石組みだ。人があんなに小さく見えている。
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天守台の上に登り、旧本丸跡の公園を見る。日本最大の城跡だけの広さはある。
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右手、旧松の廊下のあった辺りに大きな桜が咲いている。
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芝生を横切って、行ってみよう。
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忠臣蔵46士の想いを含んでいるのか、見事な花ぶりだ。
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