メイン通りの牛追い祭り像の奥に少し進むと、中央広場に出る。
ああ、ここは嘗てのナバラ王国の王宮前広場だ。
嘗ての王宮は今は博物館とか行政府の建物になっている。
これは博物館のようだ。
広場の中央に沢山の人が集まっている。
前回この「イベリア周遊の旅(148)パンプローナは牛追いの町」をブログに乗せたのは、約1か月前のことで、その間、インド・ネパール旅行や、大型連休などもあって、ほぼ1か月ぶりの再開となる。時が過ぎ去るのに待ったが無く、無常か冷酷かは別にしても、1日24時間時を刻めば、1日は過去に追いやられ、今日の日も昨日になってしまう。この1か月、グダグダしていた訳ではないが、非情にも時が過ぎ去った。この旅行記自体、実際に旅行したのは去年の6月のことで、うかうかしていたら間もなく1年になる。今日から再開するが、この旅行も既に最後の数日。去年の6月2日に成田を立ったが、この旅行記も1年以内には完結させたいものである。
さて、ここパンプローナはピレネーの山懐にある丘陵地で、前回ブログで紹介したように「San Fermin」、「牛追い祭り」で有名な街で、ヘミングウェイの「陽はまた昇る」にもあるように、この祭りの日にはピレネー山懐の各近郷近在の山村から牛を引き連れてこの町にやってくる。このお祭りがいつ頃から始まっているのは知らないが、戦前、ヘミングウェイがパリからこの町にやってきた頃には、盛んに行われていたに違いない。それは又今でも同様なことが言えるのだが・・。
ヘミングウェイがやって来た頃のスペインは内戦状態で、フランコ将軍率いるファシスト党と共産系の人民戦線軍が争っていたが、ここパンプローナは草刈り場であったに違いない。ここは元々はナバラ、或いはナバーラという独立王国で、今でもピレネー山中に小国として存在しているアンドラ公国と同じような独立国だった。
しかしここに住む人々の誇りは高く、自分もついこの町へやってくるまで、ザビエル、ロヨラ等のキリスト教聖人はバスク人かと思っていたが、実はナバラ人だということを知った。それは実は、明日バルセロナへ帰るバスの中で隣に座ったナバロ人から教わったことではあるのだが・・。
パンプローナ市内中心部にある城塞公園の脇に大きなバスターミナルがあり、その前の大通りを下った場所に随分と芸術的な牛追い祭りの巨大なモニュメントがある。そこを少し入った先に旧王宮前広場があり、そこはどこの欧州の古い街にも見られるような広々とした広場になっていて、周囲を4-5階建ての建物が取り囲んでいて、嘗ての王宮やその関連施設は、今は博物館とか行政の建物に代わっているが、当時の雰囲気を残している。
その広場の中央部には何かの記念碑、記念モニュメントがあるが、大勢の人がそこに集まって、記念の写真を撮っている。高校生か大学生の思い出旅行かも知れない。この広場の後ろ側には飲み屋街みたいな場所もあり、それを通り抜けて、闘牛場へ向かった。
ああ、日本で言うところの修学旅行生の記念撮影か。
広場の周辺は旧市街になっている。
ああ、ヘミングウエイが飲み明かした飲み屋街だ。
夜もう一度来てみよう。
この通りの入り口付近に闘牛場がある。この林の奥だ。