ちゃおチャオブログ

日々の連続

東青梅、塩船観音ハイキング(5)観音像足元の躑躅を眺め、霞丘陵を下山する。

確かにここは躑躅の名園だ。
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さて、あの頂の観音像の所まで登って行こう。
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観音像の途中の花園も見事だ。
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観音さんも大分近づいてきた。
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皇女愛子内親王の五葉躑躅を見て、丘の上の観音像に向かう。花園の遊歩道。下ってくる人も登る人もそぞろ歩きで、めいめい写真を撮ったり、談笑したりしている。花に包まれた生活。花ドロボーに悪人はいないと言われるが、花を愛でる人にも悪人はいないだろう。下から20分ほど、後ろを振り返ったり、下の花壇を眺めたり、坂道をゆっくり登ってやってきた。

丘上の観音像は塩船平和観音立像という、下の護摩堂からは凡そ60m程の丘の上に立つ。像自体は天然石ではなく、加工石で高さは3m程。台座の部分に寄付者の名前が記されているが、自分の知った名前はなかった。この寺は真言宗の別格本山で、これ程沢山の参詣者を集めているので、財政も裕福かと思われるのだが、中国やインドにあるような大理石の観音像だったら、より神々しく、信仰を集めたかも知れない。

この寺の縁起は古く、650年ころには既に開山していて、天平年間には行基菩薩もこの寺にやってきて、このお椀のような形状から、塩船寺と名付けたようだが、ここに躑躅が植えられた縁起などの記載はなかった。躑躅が何時ごろからどんな理由で植えられるようになったかは、分からないが、観音像の台座の場所から眼下の躑躅の園を見ていると、嘗て、武田の居城が躑躅の館と呼ばれていて、館の周囲は躑躅で覆われていたいう。その躑躅の館も織田方の猛攻により敢え無く焼失し、今は辛うじて武田神社として名を留めているだけだが、武田との縁の深いこの地に於いて、武田亡き後も躑躅によって結ばれていたのか・・。

信虎、信玄の昔を想う訳ではないが、観音像からしばし眼下のツツジの花園を眺め、下山することにした。20数年ぶりにやってきた塩船観音寺、今が満開の躑躅の園に言うことはない。近いようで遠くのような梵鐘の音が響いてきた。そろそろ帰ることにしよう。観音立像の裏を見ると、木戸のような出入り口がある。係の人に聞くと、この奥は霞丘陵という自然公園になっていて、ここからも下山できると言う。ではここから森の中を通って、帰ることにしよう。お寺の境内の渋滞の中を帰ることもない。

霞丘陵自然公園は直ぐ近くまで住宅地が迫ってきているにも関わらず、静かな樹林帯で、前後に歩く人も無く、歩いていて心配になる程だったが、いずれにしても里山だ。道に迷ったとしても、いずれどこかの人家には辿り着けるだろう。途中見晴らしの良い場所から奥多摩、御岳周辺の峰々が見えて、懐かしさを覚える。30分ほど山中を歩き、漸く車道に出て、折から河辺行のバスが来て、河辺駅からは又東京行きの直通電車もあって、思っていたよりも早く帰宅できた。明日が連休の最後の休み。今日1日良く歩き、良い汗をかいた。11.46キロ、16、148歩。ビールが美味しい。



下から歩いて20分ほど、漸く像の下までやってきた。
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上からの眺めも見事だ。護摩堂があんな小さく見えている。
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20数年ぶりにやってきた塩船観音寺。井野さんが亡くなってもう何年になるか・・。彼もこのツツジの山を見て、感激していたが・・。
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帰りは観音像に後ろの出入り口から霞丘陵に出て、森林帯を歩いて下山する。途中、見晴らしの良い場所から奥多摩の連山が良く見えた。
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