ちゃおチャオブログ

日々の連続

四国霊場・高知篇(22)第三十六番青龍寺に参拝。

雨の中、庇の下で唱和する。

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ここの御本尊は波切不動尊空海入唐の際、暴風雨に遭い、波切不動尊に助けてもらった、とのことである。

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空海は唐長安で恵果阿闍梨から真言宗印可を受けたが、この寺も長安と同じ名前の青龍寺とした。

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構造、配置は長安青龍寺と同じ配置と言われる。

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世の中にこんな細長い湾があるかと思えるほどの奥深い友の裏湾。第三十六番青龍寺はその湾の横浪半島先端部に建立されている。土佐市宇佐の町から対岸のお寺に行くには、この奥行10キロにも及ぶ長い湾をぐるっと回って行かなければならないのだが、空海がここにお寺を建てた時から、ここは渡し船で繋がるようになった。1200年前、空海がこの地にやってきて宇佐の集落から渡し船で半島に渡り、青龍寺を建てたが、その時、何人かの従者にこの場所での渡し守を命じた。昭和30年代、その宇佐と対岸の半島を結ぶ宇佐大橋が出来、1200年間続いてきた渡しは廃止されたが、それまでお遍路さんはその渡し船で、この寺にやってきていたのだ。

 

高知県のみならず全国的にも有名なスポーツ強豪校、明徳義塾。モンゴルから高校生の元横綱朝青龍がこの半島のお寺近くにある明徳義塾に相撲留学でやってきた時には、この橋は既にできていた。四国の随分辺鄙な場所にあるが、殆どの生徒は寮生活で、力士、野球選手、ゴルファー等々日本を代表する選手を輩出している。ちなみに力士では朝青龍以外にも琴奨菊がいて、ゴルファーでは松山英樹横峯さくらなどが、この高校の卒業生だ。モンゴルから一人やってきた高校生。この170段の石段を毎日上り下りし、足腰を鍛え、見事横綱まで上り詰め、この寺の名前を取って、しこ名を朝青龍とした。明徳義塾とお寺、青龍寺との関係は良く分からないが、石段の直ぐ目の前に校舎、グランドが見える。

 

空海がこんな人里離れた半島の先端にこの寺を建立したのは、寺伝によれば、空海が帰国の際に投げた独鈷杵がこの半島に山中に落下し、ここを霊場と定め、空海の師、真言宗第七祖恵果阿闍梨の住持、長安青龍寺と同じ名前の寺にした言う。独鈷杵が発見された場所は奥の院、独鈷山で、そこには不動堂が建てられている。石段の上、本堂がある場所が如意山で、正面に本堂、左に大師堂、右に薬師堂の造りは長安青龍寺と同じ造りと言われている。本堂には鎌倉時代作の重文愛染明王が安置されているが、御本尊は波切不動尊で、雨の中、「のうまくさんまんだ ばざらだんせんだ」の不動明王真言を唱和し、濡れた石段を滑らないように、皆、ゆっくりと下山した。

 

 

濡れた石段で滑らないようゆっくり降りて、石段下の恵果堂にお参りする。

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この奥に書院、三重塔などがある。

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書院の奥に摩尼殿が見える。

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お寺のすぐ前には明徳義塾の校舎も見える。

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