宿毛はこの四十番札所観自在寺からは隣の町だ。今度こそは足を延ばして行って見よう。
戦艦大和が沖縄に向かって出航した最後の寄港地だ。
前回愛媛を訪問したのはほぼ20年程前のことだ。所用で松山まで来て、一緒に来た同僚とは松山で分かれ、翌日は一人で電車に乗って宇和島まで来て、途中下車しお城に登り、又電車に乗って予土線(伊予と土佐を結ぶ線)に乗って、四万十川沿いに幾つものトンネルと鉄橋を渡って高知の中村に出たが、その時、宿毛に立ち寄ってみたいと思っていたが、電車の線がなく、宿毛までの最寄り駅も分からず、パスした。ここまでやってきて宿毛に来れなかったことに残念な思いをした。
前回四国霊場巡りで高知(土佐一国)を巡礼したが、宿毛郊外に土佐最後の霊場、三十九番延命寺があったが、そこは里山の中のお寺で、海は全く見えなかった。添乗員に宿毛湾はどちらの方向か聞いたら、お寺の横の小山を指して、あの山の向こう側との説明だった。巡礼ツアーだから勝手な行動も出来ず、その日は足摺岬に近い土佐清水市のホテルに泊まった。目の前は茫洋とした太平洋、土佐湾で、そこからは矢張り宿毛湾は間に横たわる半島の陰に隠れて見ることはできなかった。
宿毛と言う地名を初めて知ったのは中学の頃の社会・地理の授業で、この辺りがリアス式海岸で多くの島があってギリシャのエーゲ海に比肩されるとのことだった。日本の多島海。中学生ながら、しばしロマンを駆り立てた。それから数年、大学に入って感銘を受けた本の中に戦没学徒出征の手記、「聞けわだつみの声」、と吉田満の「戦艦大和ノ最期」。吉田満も東大の学徒出陣で、海軍見習い士官として大和に乗艦し、沖縄戦に向かった。国内の燃料も既に底をつき、沖縄までの片道重油を積み、沖縄では太平洋に面する中城湾の浅瀬に擱座し、襲ってくる米軍艦船に向かって世界最大の大和の艦砲を打ちまくる、という作戦だった。海軍士官であった吉田満他の学徒は、生還できる当てのない玉砕戦であると分かっていた。
敵潜水艦の追尾をかわすため、夜陰にまぎれて呉を出航した大和は、瀬戸内から佐田岬を回りここ宿毛湾に投錨した。ここ宿毛湾が海軍投錨地であったことはこの本の中で初めて知った。1日をこの港で待機し、再び夜陰にまぎれて出港したが、その直後、早くも豊後水道を出た辺りから敵潜水艦の追尾を許すことになり、鹿児島南西諸島喜界が島沖で敵の猛攻を受け、満身創痍、壮絶な最期を遂げた。九死に一生を得た吉田満は、この無謀な戦いを後世に残すために、3日3晩、不眠不休でこの本を書き上げたと言われる。
日本はこの戦争に敗れる。自分たちの生還もない。死ぬと分かっている戦いに出陣していく。同僚学徒との論戦はこの戦いの意義、死ぬことの意味、死ぬことによって敗戦後の日本の精神の礎になる。新しい日本の礎になるのだと。二十歳の彼らは結論の出ない論戦に夜を徹した。「聞けわだつみの声」同様にこの本は涙無しには読めないものだった。
4月初め、3000有余名の大和乗員はこの湾を囲む山桜を見、日本国土に最後の別れを告げ、翌日大半の乗員は海のもづくと消えて行った。最後の連合艦隊司令長官中野整一と大和艦長有賀幸作は艦と共にした。彼等が死ぬ直前に焼き付けた大和の地、宿毛湾に今立っている。周りには誰もいない。戦艦大和の最後の投錨地を訪ねてやってくる酔狂人もそうはいないだろう。海に向かって静かに黙した。
島の位置、湾の形は75年前と変わっていないだろう。
75年前と比べ、宿毛の市街地も随分と近代化しただろう。
大和乗組員3000有余人は、国土に最後の別れを告げて沖縄に向かった.
実に彼らに取っては死出の旅。宿毛の山並み、当時咲いていたであろう山桜は、彼らの目にどう映っただろうか・・.