屋島山頂は平らな台地になっていて、屋島寺の前には大きな駐車場がある。
山頂からは眼下の源平古戦場の跡地が見える。
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その先に更に徳島の海外線も見えてくる。
起伏に富んだ海外線だ。
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高さ凡そ300m程の屋島山上は平坦な土地になっていて、常の山にあるような峰、ピークと言ったものはない。午前中高松市街を間に置いた五色台にある霊場根香寺からこの島を眺めたが、それは実際来てみても分かることだが、卓状山地、テーブルマウンテンの形状をしていて、殆ど真っ平だった。屋島寺の前の駐車場はその形状を活かせて、広々としたものだ。大型バスでやってくる観光客向けなのか、大きな観光センター、土産物センターの建物も2カ所にあるが、内1カ所しか開いていない。その開いている土産センターもこのコロナ禍では閑古鳥。日本国中、観光業者は至る所カッコーの淋し気な鳴き声しか聞こえてこない。
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さて先刻この駐車場にやって来た時は、先を急いでいて右下の崖下に見える源平古戦場の跡をゆっくり見ることはできなかった。対岸の八剣山も横目でちらっと見ただけで、車を走らせてきたが、今は屋島寺の巡礼も終わり、少しだけ気持ちの余裕もできた。車をゆっくり走らせ、見晴らしスポットを探しながら、坂を下る。観光道路は部分的に道幅を広げ、何カ所かに古戦場跡の見晴らし台のスペースも作られていて、1-2台車を止めて眼下の景色を眺めているドライバー、家族などもいる。自分も車を止めて崖下の古戦場跡地を見る。見たところ、余り変わり映えのしない埋立地だ。ここが嘗ての戦いの跡とは、道路の案内板がなければ誰も想像はできないだろう。早鞆の瀬にしてもそうだ。古戦場跡の歴史は既に土地の中に埋没し、平家物語や歴史書の中でしか知りようがない。古戦場よりかその先の八剣山、庵治石を切り崩して取り出した、山肌が剥き出た荒々しい傷跡の方がむしろ興味を引いた。ここから切り出された大石は、船で大阪まで運ばれ、あの大阪城の巨大な石組みに使われたのだ。
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その大阪城築城の400年ほど前、日本の歴史の中で数奇な運命を辿った平氏の栄枯盛衰があった。「平氏であらずば、人にあらず」とまで驕り高ぶった平家一門も最後は壇ノ浦、早鞆の瀬で海の藻屑のように消えて行った。清盛亡き後、源氏の荒武者に京都を追われた平氏一族は神戸福原に仮の都を移したが、そこも又義経を総大将とする追捕の軍に追われ、この地、屋島に逃げてきて、態勢を立て直しつつあったが、それも又義経の奇襲作戦により大敗し、ここから瀬戸内を遁走し、遂には壇ノ浦で清盛の妻時子に抱えられた7歳の安徳天皇は三種の神器と共に早鞆の瀬に身を投じ、平氏一族は胡散霧消した。
兵庫一の谷では義経の突然の奇襲に多くの有力武将を失い、ここでも又、徳島経由で後ろの陸地から攻め立てられた平氏軍は一たまりもなく、破れてしまった。先刻屋島寺宝物館に那須与一遺族から寄贈された扇の的の屋島合戦図が展示されていたが、那須与一がこの戦場で勇名を馳せ、同時に平敦盛、佐藤嗣信も戦死した。それから程なく、この時の総大将義経自身が追われる身となり、奥州の地衣川にて無残な最期を遂げることとなった。芭蕉はこの地にはやって来なかったが、何故か屋島寺には芭蕉の奥の細道、平泉で詠んだ句「夏艸やつわものどもの夢の跡」の句碑が立っていた。一の谷には須磨寺があり、ここ屋島には屋島寺がり、壇ノ浦には赤間神宮がある。赤間神宮には耳なし芳一の墓もあり、今でも平家物語は語り継がれている。余り特徴の見られない、埋立地にしか見えない古戦場跡ではあるが、日本の長い歴史の中の一コマを記憶しているのだ。暫し眼下の波打ち際に目を落とし、平家の盛衰を思った。・・そう言えば厳島神社宝物館で国宝の平家納経を見た後、弥山に登り、丁度今の反対側の位置からこの瀬戸内を眺めたこともあったのだ・・。
屋島の正面には庵治の半島が見え、石を取り出した山肌が大きく抉られている。
麓の庵治、牟礼の街並み。その先が平賀源内の故郷、志度だ。
もう少し下ると、屋島古戦場跡が見えてくる。