那智駅からは県道を渡った先に補陀洛山寺がある。
境内には庫裏も無く、無住寺のような感じだ。
補陀落山、インドのポータラカ、中国浙江の補陀山は一大観音霊場だ。
境内には渡海に使用されたと同型の伝馬船が奉納されていた。
結局、降ったり止んだりの雨の中、滑りやすそうな石段を下って那智大瀧の滝壺まで降りるのを止めて、次のバスに乗って下山した。バスは途中市野々の集落の前を通るが、この辺りは10年前の秋、台風の襲来によって記録的な大雨災害を齎し、丁度今バスの右手を流れている那智川が氾濫し、この辺りでは多くの死傷者を出した。その時の春の東北地方を襲った大津波の大災害の陰に隠れ余り目立たないが、南紀地方の豪雨災害としては記録的な出来事だった。10年経った今は災害も復旧され、バスの中からは傷跡は見えないが、心の傷はいつまで経っても癒えないだろう。
那智大瀧から20分、バスは那智駅前に停車し、下車する。県道を渡った直ぐ目の前に補陀洛山寺がある。補陀落渡海の信仰がいつ頃から発生したのか、自分には分からないが、一昨年四国巡礼で参拝した足摺のお寺、金剛福寺は有名であり、足摺岬の名前も一説には、渡海を嫌がった僧侶が足を摺って、ダダを捏ねて小舟に乗らなかった、とも言われている。又同じ四国では、平賀源内菩提寺の塔頭もある志度寺にも同様の伝承があり、人々はタライ舟に乗って、志度の浜から漕ぎだして行ったと言われる。ただここの海は目の前が瀬戸内で、あちこちに小島等もあって、沖の太平洋に行きつく前に、どこかの小島に漂着する可能性が高かった。
ここ南紀補陀洛山寺は、金剛福寺同様、目の前は太平洋の荒波で、沖合に出れば直ぐにも難破するのは必定だった。死ぬのが必定で波高い沖合に出て行く。何か先の大戦の特攻隊員の原点のような宗教行事だが、だからこそ高僧として崇められ、金剛福寺本堂の裏手にはそうして犠牲になった僧侶の沢山の石塔が立っていた。金剛福寺も志度寺も四国霊場の1ケ寺であり、お寺の財政は豊かに思え、志度寺などは五重塔まであり、八十八ケ寺霊場の中で五重塔があるのは最御崎寺、善通寺等僅かに4カ所を思うと、大変な財力だった。
それに比べ、ここ補陀洛山寺は、やや荒れ気味で、無住寺のような感じで、境内には庫裏も見当たらなかった。四国霊場の場合は全国から参詣者が日々やってきて、賽銭、御朱印代、等々の日銭が上がるが、この寺は単独寺で、檀家に支えられているのだが、過疎化も進み、檀家の数も減って来れば、お寺を維持するのも大変だろう。歴史あり由緒ある寺であっても、支える人がいなくなれば廃寺となる。県や文化庁の支援が無ければ、古い伝承も歴史の中から消えていく。
この寺に来て、再び青岸渡寺を思う。明治の廃仏毀釈の頃、青岸渡寺の沢山の宝物はこの寺に移され、破壊、破損、散逸を免れた。当時この那智山周辺にあって、最も信頼の置ける大寺であった。明治の中旬、那智山念仏堂が新たに青岸渡寺として再興した際、預託された宝物は返納され、この寺は空っぽになった。仁徳天皇の頃、インドから裸形上人がこの地にやって来て、この寺はその時の創建と伝わるが、当時を記録する宝物は残っていない。補陀落渡海に関しては、この寺のどこかに小さな碑文があり、何人かの僧侶が渡海した事実が記されているとのことだが、案内も無く、探すのも大変だった。ただ境内には伝馬船のような船が展示してあって、この同サイズの船に乗せられ、沖合まで伴船に曳航され、綱切島辺りで、引き綱が切り離されたとのことである。
島がどこにあるのか、駅裏の浜に出て海を眺める。白い砂浜が左右にずっと広がっている。神武天皇がこの浜に上陸し、ここから那智山を眺めた。確かに大瀧は光の反射具合によっては、見えないこともないだろう。沖合の海は左右に狭まっていて、綱切島もこの湾口の左右のどちらかにあったのだろう。今は昔。浜辺では一組の親子が波に戯れていた。8月の第1週、コロナさえ無ければJRも臨時列車を走らせ、この浜辺も沢山の海水浴客、家族ずれで賑わっていただろう。裸形上人に連なる補陀洛山寺。その補陀落渡海に対比する青岸渡寺。青は青山の青かも知れないし、青龍の青かも知れない。矢張り、補陀落信仰とは一体のものだろう。
歴史を見つづけてきた境内の大楠。
那智の浜に出た。3000年前、神武天皇がこの浜に降り立ち、奈良を目指した。
コロナさえ無ければ、真夏の今は沢山の海水浴客で賑わっている筈だが、今は、子連れの家族1組がいただけだった。
補陀落渡海の渡船の綱が切り離された綱切島がどの辺りか探してみたが、聞く人もいなくて、分からなかった。