ちゃおチャオブログ

日々の連続

11.15(水・曇り)日本人をスポイルさせるマスコミテレビ報道界。

 

 

今日は753の日だが、サラリーマン家庭の多くなった昨今では早目の土日に行う家庭が多くなっているだろう。今では今日の正日に行う家庭はむしろ少数派だ。先月札幌へ行ったが、大神宮では外人家族が紋付袴姿でお祝いをしていた。奥さんが日本人だったから、どちらかの音頭取りでこういうことになったのだろう。

 

ここ2‐3日、テレビや新聞で宝塚劇団員自殺問題が連日報道されている。毎日新聞では1面に報じ、更には社会面でも詳しく報じている。NHKなどではトップニュースで、民放各社も朝昼の報道番組では大きな時間枠を取って詳細に報道している。

一人の人間の自殺が何故これ程までに大々的に報じられているのか、自分には理解できない。数年前に起きたテレサ女性の自殺問題を彷彿させる。今では自殺した本人よりも、その母親が有名人になっている。

 

自殺は病気になって思考能力が無くなり、善悪の判断ができない状態で行われた以外は、殆ど全てが自己判断によるものだ。その自己判断が間違ったかどうかを問わず、自分自身で判断し、その結果として行われたものだ。即ち、自殺者はその結果に対する全責任を本人が負う。死ぬも生きるも本人次第なのだ。中には経済的、病魔、恋愛感情の果て、或いはイジメや追い込まれたものであったとしても、最終的にどう結論付けるかは自分自身で決めるものだ。天から命を頂くということは、それ程重大な判断が個人に求められている。

 

ウクライナやガザでは毎日何百人もの民間人、大人や子供、或いは兵士が殺されている。兵士にはその覚悟はあるとしても、一般民間人は降ってわいた災難だ。生きようとしても生きられずに殺害されて行く。同じ人間の死とは言え、そうした戦場に於ける悲惨な死と自殺を同一レベルで論じてはならない。避けようのない死と避けられる死。

新聞は一面で自殺を報じ、テレビはトップニュースで報じている。自分自身で選択した死を何か他人のせいにしたり、自殺の責任を他の原因に持って行こうとするマスコミの姿勢は頂けない。自殺の責めは本来自殺者本人に帰するべきなのだ。

 

こうした自殺を大々的に報道する全メディアの姿勢は、何か大きな問題を顕在化させない為の手段のようにも思える。或いは、国民に取って重大な情報を公開しないで、国民の思考能力を低下させ、考える力をスポイルしているようにしか思えない。

新聞テレビマスコミは国民生活にとってもっと重要なニュースを報道すべき義務がある。テレサにしても宝塚にしても、個人的な理由によって死んで行った者を大々的に取り上げることより、もっと大事なニュースはある筈だ。

 

2月に宮古島で墜落した自衛隊の大型ヘリに関しての続報は全くと言ってよい程ない。何か月か後に一度フライトレコーダーが回収されたようなニュース報道もあったが、それだけで終わり、レコーダーの分析結果とか、国民が最大の関心を持っている墜落の原因とか、全く報道されていないし、マスコミ界が防衛省自衛隊に情報開示を迫ったという動きも見られない。

 

1機数百億円もする大型ヘリ。しかも自衛隊大幹部の殉職。これだけでも日本国の大きな損失ではあるし、莫大な税金も使われている。国防に係わる重大な問題が内在しているかも知れない。この重大事故に関する報道が最初の遭難情報だけで、その後のフォローが全く無く、原因その他が闇に包まれたままの状態で10か月も放置されている状態はマスコミメディアの怠慢と言わざるを得ず、国と一緒になって情報隠しをしていると思わざるを得ない。