ちゃおチャオブログ

日々の連続

薩摩・大隅の旅(39)枚聞神社と開聞岳。

頴娃の町だ。エイと読む。以前は揖宿郡だったが、町村合併で、この郡自体が消滅し、今は南九州市に組み入れられている。
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町の屋根の向こうに開聞が堂々と見えている。
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この先に頴娃のせびら(瀬平)公園が見えている。
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瀬平公園の案内板。こうした案内板がないと、この町の名前「頴娃」などは読めない。
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この公園からは真正面に開聞岳が聳えている。
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頴娃の瀬平公園から約15分、枚聞神社にやってきた。山門の後ろに開聞が見えている。
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鹿児島湾(錦江湾)の周辺であれば、大体どこからでも開聞岳を見ることができる。湾の奥深くまで行かないと見られない桜島との違いは、その容姿と高さ、それに長崎鼻と言う半島の先端部の出っ張り部分、海上から突き出ているようなロケーションにある。今は坊津から海岸沿いの国道を指宿に向かって走っているが、どこを走っていても正面か右手の洋上に見えている。時々は車を止め、眺めたり、写真を撮ったり。山を正面に見る最後の小公園、頴娃町のせびら自然公園で一休みする。ここから山までは海を隔てて5キロもない。秀麗秀美な薩摩富士が正面に見えている。

当方日本百名山を最後に登ったのは、もう今から5年前の2011年で、75座目にして途中中断になっているが、この開聞岳は最初に登った山だった。今から15年前の2011年4月27日のことで、当日には直ぐに屋久島に飛び、二日後の29日に2座目の宮之浦岳に登頂した。自分にとっては記念すべき第1座の山である。麓の国民宿舎を朝早く出て、まだ全く登山者のいない山道を山頂に目指し、2時間も掛からずに登頂し、直ぐに下山したが、当日は土曜日で、下山中に沢山の登山者と行き交った。登って来る多くの登山者から「まあ、随分早い山登りですねえ。何時から登られたんですか?」と言葉を掛けられ、最初の100名山ではあったが、自身の健脚に内心ほくそ笑んだのだった。

       < 開聞岳 今日を一歩の 五月晴れ >

車を走らせながら、前方に見える開聞を見ながら、10数年前の登山を思いだしつつ運転すること15分~20分で開聞町に着いた。神社はこの国道を左に折れた直ぐの所にあり、鳥居越しに開聞岳が聳えている筈だ。開聞をひらがなで書くと「ひらきく」。これを又漢字に戻すと「枚聞」。開聞岳がこの神社のご神体だが、同じ漢字にすると畏れ多いので、同音異字の「枚聞神社」。こうした例はあちこちの神社であり、奈良の大神(大三輪)神社なども、ご神体は神社の直ぐ後ろの山・三輪山であるが、同音異字を使用している。

鳥居の前の駐車場に車を止め、境内に向かう。ああ、この光景。15年前の翌日に登山を控えた開聞が鳥居の向こうに姿を見せている。何をお祈りしたのか良くは覚えていないが、崇高な気持ちになったのは確かだった。それは翌日から始まる100名山踏破の願いもあっただろうし、登山の無事も祈った筈だ。それから10年、75座止まりではあったが、この間、ケガもせず、遭難もしなかった。神仏の加護は確かにあった。今日再び改めてお礼した。七五三のお参りの家族も何組か来ている。自分にも去年初孫ができた。来年か又は再来年か、地元の産土神にこんな風にお参りに行くのだろう。



ひらぎく(枚聞)神社。ここは確か薩摩一之宮だ。
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ああ、15年前にもこんなことがあった。
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100名山の登頂と、現在までの無事を謝す。
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宮とご神体。良い山だった。山頂に白山媛の祠があったが・・。
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七五三のお参り客も何組か見えている。
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ありがとう、の言葉しかない。
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