ちゃおチャオブログ

日々の連続

宮古の4日間(25)平良港。

海中公園では潜水艦のような水中観察室から目の前の魚を見ることができる。

 

様々な水中生物、熱帯魚が泳いでいる。

 

水中の自然の営みを存分に眺めることができた。

 

いつまで見ていても切がないので、程々に切り上げることにした。

 

 

海中公園を出てから、ホテルに戻る前に少し港を見ておきたかった。この島で外洋航路の大型船まで入港できる本格的な港は一つしかない。戦前の昔からある港で平良港だ。今ここ宮古群島は全部の島が一つの市に合併し、宮古島市となっているが、それ以前はここ宮古島の大半は平良市(ヒララ市)であって、昨日行ったドイツ記念館は上野村、空港のある下地島とかその隣の伊良部島伊良部町、等々、幾つかの市町村に分かれていた。

 

自分が沖縄に住んでいた40年ほど前には、新聞やテレビなどでは宮古島の平良市と報道されていたが、それがいつの頃か全島1市の宮古島市に大同合併された。去年訪問した壱岐対馬も1島1市に合併しているので、人口減少の日本、税収不足の日本にあって、総務省のご指導の下、強力な行政指導で大同団結させられたのだろう。その嘗ての平良市を思い出せる平良港。外洋コンテナー船も停泊できる大きな岸壁が整備されているが、貨物量はそれ程多くはないのか、クレンチ、クレーンの数はそれ程多くない。又港内に停泊している船舶も数少なく、数隻の大型レジャー用クルーズ船が目を惹いた程度だった。

 

今回の旅行が終わった後の3月、この港が脚光を浴びることになった。それは熊本師団長を乗せた大型ヘリが宮古の北側の洋上に墜落し、師団長他全員10名が死亡した大惨事があったが、救助船や捜索船、サルベージ船がこの港から出航し、毎日何回となくこの港湾が映像に映し出されていた。ああ、この光景は、大さんと一緒に眺めた貨物ヤードの横の台地から眺めた場所からの撮影だ、と既視感にひたった。

 

コロナ禍のせいなのか、それ程活発な経済活動が見られない平良港を後にしてホテルに戻ることにした。夕方からの今回旅行の最後の晩、どこでどんな宴会を始めるのかまだ決めてはいないが、集合の6時に遅れることはできない。旧名平良(ひらら)の名を留める港を後にした。沖縄では苗字で平良姓がかなり多い。普通の場合にはタイラさんと呼んでいるが、人によってはヒララさんと呼ばれている。自分は今でもどちらが正しい呼び方なのか判断つかない。石垣には昔の島の名主が住んでいた平良殿地が旧跡として市内に残っている。ここは確か「ヒララデンチ」と呼ばれていた。古くからの正しい呼び名は矢張りヒララだろう。

 

ホテルに戻る前に途中の平良港(ヒララ港)に立ち寄った。

 

港の近くには大型のホテルも建っている。

 

どこの経営が知らないが、このコロナ禍で、青色吐息に違いない。

 

天気ももう一つ優れず、海も荒れている。この前方が下地空港だ。