香港とのフェリー乗り場とは反対側の街並みは、やや貧しげだ。
この辺りには所得の低い中国人が住んでいるのかも知れない。昔の香港の貧民街を思わせる。
マカオには7つの丘があるといわれるが、建物に隠れて見えない。今見えているのはモンハの丘か。
マカオの市街をもう一度見渡し、博物館へ向かう。
南国の花、ハイビスカスが綺麗に咲いている。
マカオは香港から比べたら40分の一にも満たない小さな植民地ではあったが、それでもポルトガルが海外に有する直轄植民地の中では、中国貿易の窓口として重要な地位を占めていた。最後まで手放したくない気持ちは強かっただろうが、1997年、香港がイギリスの植民地から中国に返還された2年後、欧州のアジアに於ける一番古くからあった植民地マカオも中国に引き渡された。インドゴアは既に無く、ポルトガルのアジアに於ける足場はこの時をもって、失われてしまったのだ。
このモンテの丘から、眼下に広がるマカオの町を眺め、この町が辿った400数十年の歴史、今はカジノシテイとして、華やかな脱皮を遂げているが、モラエスが赴任した150年前は、この丘から真っすぐ正面に海は見渡せただろうし、この町にある7つの丘も指呼の間だったに違いない。今は高層建物に視界を妨げられ、海は見えないし、7つある丘も僅かに正面の「松山」(東望洋山)、左手に青々した森の広がる「モンハの丘」程度しか見えない。他に後方には「ペンニャの丘」(西望洋山)、「バラの丘」などもあるのだが、建物に隠れ、見ることはできなかった。
左手「モンハの丘」は面積も広く、高さもここ「モンテ」よりも高そうであり、その麓には林則徐記念館もあって、寄ってみたい気もあったが、ここから見ると4-5キロはありそうだ。歩いて行けない距離ではないが、もう時間も2時を過ぎている。このモンテ砦の山頂にはマカオ博物館もあり、そこへ寄ったらもう3時を過ぎてしまうだろう。今日の処は止めておこう。
マカオは狭い町で、どこへでも歩いて行けると思っていたが、こうして見ると案外大きく、合計の広さは約30万㎡、山手線内側の半分程の広さがあり、自分が住んでいる小金井の3倍の広さがある。だから、歩いてくまなく見て歩くのは、時間的に無理だろ。
ひと渡りマカオ市街地を眺め、博物館に向かう。途中、大砲が定位置に据えられていて、それはそのままモラエス時代の150年前と変わらぬ姿で、興味深くそれ等の大砲、大筒を眺めながら歩く。実はモラエスが初めて日本にやってきたのは、日本での大砲の買い付けで、日清戦争で中国を打ち負かせた日の出の勢いの日本の工業力に期待したものだった。そうした買い付けが一段落し、その後、モラエスは神戸駐在領事として、亡くなるまでの凡そ40年間日本で過ごし、骨を埋めることになったのだが、彼と日本との最初の係わりになったのはこの大砲であった。
もしや日本製の大砲でも据え付けられてはいないかと、製造番号、商標登録等を子細に見て回ったが、漢字で刻印された大砲は見当たらず、主にB.P&Co,が彫り込まれた大砲だけで、その製造年月も日本が開国する明治以前の19世紀前半のもので、本国製か或いはイギリス製と思われた。そうして見ながら歩くこと数分、マカオ博物館に到着した。
博物館への途中、日本製の大砲が置かれていないか、見ながら歩く。
これもB.P社製だ。どこのメーカーだろう・・
1861年製。明治元年の6年前のことだ。
1925年製か1825年製か・・。PとあるのはPortugalの略だろうか・・