ちゃおチャオブログ

日々の連続

上野・国立博物館「大神社展」追補。

大神社展は4月9日から6月2日までの約2ヶ月、上野の国立博物館で開催された。
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国宝77点、重文89点の圧倒的な展示会だった。
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数々の国宝に圧倒された。
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春日大社所蔵の「春日神鹿御正体」。
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骨董から武具まであらゆる種類の国宝が展示されている。
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今月21日、友人の星さんと参観した上野博物館における「大神社展」について、一昨日その時の印象を記したブログを作製したが、その時は資料も見ずに、印象に残った情景を思うがままに書いてしまったが、今改めて資料を見ると、色々ととんでもない間違いをしていたのに気が付いた。

その最大のものは、国宝の点数であり、前回ブログでは20数点と記したが、今改めて数えてみると、国宝の数は実に77点に上り、又重文も89点に及ぶ圧倒的多数の展示品だった。国宝、重文の数が余りにも多く、当方も大きな錯覚をして僅かに20数点と記した次第だったが、今改めてパンフを眺めると、壮観の一語に尽きる。

石上神社所蔵の「七支刀」も春日神社の「七枝刀」と書いたりしていたが、正しい名称は「七支刀」。解説を読むと、これは4世紀古墳時代のものとなっている。石上神社はこの直ぐ近くにある三輪神社と対になっていて、大三輪の磐座に対し、こちらは「七支刀」に代表される刀剣が神の宿りと崇拝されていた。繰り返しになるが「七支刀」を見ることが出来なかったのは、折角の機会であったが、残念でもあったが・・。

「豊国祭礼図屏風」は国宝ではなく重文で、江戸時代になってからの狩野内膳の作品で、秀吉の後嗣、秀頼が亡き父の御霊を祀るため、京都東山の麓に豊国神社を建立した際に、奉納したものと思われる。重文とはなっているが、自分の目には国宝であってもおかしくない逸品だった。狩野内膳という絵師は詳しくは知らないが、狩野派の一人、時の豊臣家が依頼する位だから、当代一流の絵師であったに違いない。

「伝竹内宿祢像」は「男神坐像」の一つとして展示されていて、平安時代10世紀の作品で、京都教王護国寺、即ち東寺の所蔵になっていた。空海大師の建立したお寺の収蔵物が、どうして今回の神社展に展示されているか、又、草創期の武将の起源たる宿祢がどうして真言宗のお寺に祀られているのか、その詳しい経緯は分からないが、当時、神仏習合の次代にあっては、こういう事もあり得たのかも知れない。詳しくは学者の解説を待つのみである。

前回のブログで、竜司さんから、「大神社展?神社何処にもないけど、神社の宝物の間違いかなぁ?」というコメントを頂いたが、これは全くその通りで、江戸時代に良く開催されていた「法隆寺出開帳」のような各地の寺社仏閣の収蔵品を江戸等で開くことにより、寺社の収入に寄与していたという現代版で、これは庶民、市民の所得が高まったことにより成り立ったことで、時間的経済的に余裕のある層は、現地まで行き実物を見ることもでき、お蔭参り等の旅行ブームも起きていたが、そこまでの余裕の無い庶民に取っては、こうした機会に日本古来の文化芸術工芸に触れることは実に良い涵養となった。
 
同行の星さんが最後に漏らしていたが、文化庁文科省は、こうした文化の向上を図るためにも、高校生、大学生までの学生は無料に背べきであり、入館料は税金から補填すべきだ、との説は傾聴に値した。
 
 
 
 
黒丸は全て国宝。国宝のオンパレードである。
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方角規矩鏡、三角縁神獣鏡、龜竜鏡、などは宗像三女神の島、沖ノ島からの出土品だ。
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素戔男尊坐像は重文で、伝の竹内宿祢座像が国宝となっている。
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七支刀は「枝」ではなく、「支える」七氏族、七人を意味していたのか・・。
この鐙は沖ノ島出土だが、西域、ペルシャ風の丸みを帯びていた。
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平家納経は今回は見れなかったが、以前厳島で見ている。今回豊国祭礼図屏風を見れたのはラッキーだった。
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